天気は 雨
長野県南木曽町に 、義父の介護のため 帰省中
毎朝の私の仕事
義父への 新聞読み、マッサージ を 終えた今
亡き実父の ことを 考えている ・・・
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①私は長野県の山間地で育ったが、小学校入学時に 革靴で登校するなど比較的裕福な家庭だった
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小学校3年生の時に突然 生まれた家から 出ていかなくてはならない転機が訪れた。
祖母の難病費用等もあったことから 親たちは 借金して 近くに 家を買うことになった。
祖父が口約束のみで 土地の登記をしていなかったことによるが 大きく人生が変わってしまった。
家族の心にも ある種の わだかまりが 生じた。
わたしの
少年の心にも 大きな痛みを 感じた。 この時、自立することの大切な意味を体得する。
還暦を過ぎた今でも 不思議に つよく残っている。
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②私が高校時 亡き父の言葉
「若い時の 苦労は 買ってでも しろ!」 が 脳裏に残る。
私は、理系の進学クラスであったが, 身体検査の赤緑色弱のため文系進学コースに変更された。
このため、図書館の本をすべて読破するほど読書に集中し、受験勉強をしなかった私は
父の この言葉もあり 高校卒業したら 自活し ようと 心に決めた。
(今、赤緑色弱ではない)
大学紛争もあり・・ ・大学も大学院も 親の援助なしで 働いた自分のお金でまかなった。
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・・・20歳の頃 東京阿佐ヶ谷で3畳一部屋に住んでいたことを思い出す・・・ ・・ ・
(共同トイレ、雪の中での手洗い洗濯、共同浴場、マグロフレーク缶詰とパンの耳の食事・・・ ・)
金銭的には貧しかったが しかし 志と ハングリー精神に溢れていた。
こころおどる 思い出である
{{お金は本と勉学と人との会食に投資し 人の嫌がるような事も 勉強と念じ
積極的に 人間力アップに注力した とにかく心の奥が 不思議に 希望・夢に満ちていた }}}
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”””20代 最低限に近い生活をしてきたという実体験(原点)が
私の人生において 今なお 旺盛なチャレンジ精神・社会貢献の 拠り所”泉” になっている。
チャレンジして失敗しても
また
スタートの生活(3畳一間)に 戻ればいいさ という
還暦を過ぎても ”原点”を 忘れずに 持ち続けているようだ。
”” 私の人生のバックボーン には
胃がんで亡くなったが、地位等に 執着せず、
休日や夜遅くまで 地域貢献する地方公務(注)に、純に心を燃やす 亡父の姿がある。””
( 注:長野県吾妻村役場・公民館、南木曽町役場 )
吾妻村は、日本の公民館活動の発祥の地
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